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何かが欠落している

ストレス

こんにちは、ともです。

ときどきふと、怖くなる時があります。

自分が何かしら欠落している気がして、

それは、他の人とは確実に何かが抜け落ちているという怖さです。

埋めることができない、何か、

情緒、感情、知能、知性、共感力、

自分でも認識できない何かかもしれません。

そういったものが劣っているのか欠けているのか、

知的能力が人より劣っていることに自分で気が付く時があり、

そして、それがどうにもならないことを思うと悲しくなります。

よく言われるのが、

硬い岩盤があってそこから先に入っていけない

みたいな表現をすることがあって

まさにそういうことかなと思います。

みんなそういうのはあるよ、

人間なんだから多様だし限界があるよ、と言うけれど、

次元が違うという気がしてならないのです。

私は「人」に擬態して生きているんですね。

ちょっとでも気を抜くと化けの皮が剥がれてしまいそうで

いつも気が抜けないのです。

化けの皮が剥がれると人格を疑われる恐怖があるからです。

例えるなら、道端の石を拾い上げて裏に虫がついていた時のような

表面は普通なのに裏に嫌なものがいたという、

なんともいえない表情を自分に向けられると、

自分が一体なんなのかわからなくなるんです。

あぁ、バレてしまったというような、

どこにも逃げ場がないのに逃げたくなるような、

そんな気持ちになります。

そもそも人格ってなに?と思うのですが、

人格は、人としての在り方、という意味なんでしょうけど、

私からすれば、すべてのことは「脳」がしていることなので

その人そのものの力でどうにかなるものではないと思うのです。

私の人格は、私の脳が作り出しているものです。

私の力でどうにかなるわけではないのです。

ですが、この人間社会で生きるには

人格を疑われるようなことはご法度ですから、

必死で擬態しているというわけなのです。

でも、正直なにが正解なのかわかりません。

毎回手探りです。

正解がなにかわからないので人の顔色ばかりうかがってしまいます。

自分の意志は封じているので苦しいのです。

そして、ある日爆発します。

それはそうですよね。

自分を抑え込んでいるのでそのうち爆発します。

なので、最近思うのは、もう人格を疑われてもいいから

自分を出した方が良いのではないか?と。

そうした方が感情が爆発することを防げます。

でも、ご法度を犯す恐怖はあります。

恐怖に打ち勝つ自信は無いですが、

自分が楽に生きられる方法を模索することが健全かなと思うのです。

自分にとって健全に生きることが大事だと思います。

世の中の健全と自分にとっての健全が

おそらく質的に違うものだということは

なんとなくわかります。

でも、それが本当の意味での多様性と言うのかなと思うのです。

多様性は理解がむずかしいですね。

理解がすぐできるようなものは多様性とは呼びません。

理解ができないから多様性なのです。

そんなことを思いながら

爆発しないようにブログに吐き出す今日この頃です。

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