こんにちは、ともです。
つくづく親子というのは、
個人と個人だと思わずにはいられないです。
私は自分自身も子供を育ててますし、
かつては子供の立場でしたから、
親の未熟さ、ということを痛感します。
親と言えども人間なので未熟なんですよね。
そのうえ、子供と言えども一個人なので、
一個人である人間を育てるというのは、
未熟であるがゆえに距離感を間違えることもあるわけです。
距離感はむずかしいですね。
近すぎても遠すぎてもダメで、
お互いの程よい距離感とは、時間をかけて作っていき、
気の遠くなるような微調整を重ねた上に成り立つんですよね。
ヤマアラシのジレンマというか、
ヤマアラシは近づこうとすると、
お互いのトゲで傷ついてしまうといいますし、
親子関係、家族関係はどうしても近くなりがちで、
そうすると、未熟さゆえに傷つけあってしまうんですよね。
では、成熟した人間になればいいのかと思ったのですが、
そう簡単には成熟するわけもなく、
そもそも成熟した人間なんてこの世にいるのか疑問です。
人間である以上は成熟なんてないのでは?とも思います。
人間というのはいくつになっても未熟なんでしょうね。
年齢を重ねたからと言って成熟するとは限りません。
自分の親を見ていてもそう思います。
ということは、自分も結局一緒で、
未熟なまま年を取るんでしょう。
未熟なら未熟でいいと思うんです。
自分のやれることをやれる範囲でやる。
未熟さを自覚していれば、それだけでいいのだと思います。
そもそも、子だとか親だとか関係なく、
互いに自立して生きるということですね。
この自立というのが大事なんでしょうね。
家族は支えあわなくてはいけないと思われがちで、
絆や縁とか言われがちですが、
支えあわないといけない決まりはないんですよね。
助け合い支えあえればそれに越したことはないのですが、
義務になってしまうのは違いますよね。
義務になるとお互いに息苦しくなります。
なぜ義務的になってしまうかというと、おそらく儒教の影響とか、
日本特有の道徳観から生まれたものなのかもしれませんね。
私の親はよく「家族の縁は切れない」と言いますが、
たぶん、戦前戦後の混乱期に生まれ、
幼少時代を過ごした人特有の考え方なんでしょうね。
食べ物も物もない時代に、
家族で支えあわないと生きていけないような時代に生きたので、
家族に対しての思い入れが強いのだと思います。
家族はこうであらねばという考えに支配されてるんですね。
それが良きにしろ悪しきにしろ、距離感にも反映されるわけです。
しかし、時代と共に家族の形も変わります。
それが良いのかどうかはその都度変化していくので、
変化に合わせる必要があるということです。
そういう自分も、こういった前時代的な価値観の親の元で育ったせいか、
色々な思い込みがありました。
この思い込みはけっこう強力で、至る所で顔を出し悪さをします。
なので、今は、自分の家族観を見つめなおし再構築中です。
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