こんにちは、ともです。
生まれてこの方、気づけばずーっと精神疾患なのですが、
治る日って来るのか?と、ふと思いました。
私なりの結論から言うと、
治るという概念ではない、ということですね。
そもそも治るというのがどういう状態なのかわからないのです。
正常な状態というのを知りませんから、
どうなれば治ったという定義になるのか?という話になります。
社会に適応すれば治ったということなのか?とも思ったのですが、
よくよく考えたら一度も社会に適応したことがないので、
これまたわからないのです。
わからないものは治りようがないんですね。
ある日、目が覚めたように、悟りを開いて治った!
みたいなことになるのでしょうか?
それはそれで怖いですよね。
そもそも悟りを開くってどういう状態なのか?という話になりますよね。
出家したらいいのかというと、
お坊さんが全員悟り開いてるわけがないですからね。
そうすると、結論、治ったとしても今となんら変わらないのではないか?
というところに行きつきます。
要するに、今の状態が自分にとって通常運転ということになります。
通常運転にしてはだいぶおかしな動きしてますが、
それも含めて自分ということなんでしょう。
昔、雑誌や新聞の広告に○○障害が治った!とか
○○で○○症が治った!とかありましたよね。
今でも、ネットの世界であるかもしれませんが、
あれはだいたい詐欺か宗教ですから。
苦しいと藁にも縋る気持ちになるので引き寄せられますよね。
ですが、ただの藁なんですよ。
なので、治るということじゃないんですよね。
精神疾患は、治らなくても
まぁなんやかんやあるけど、ぼちぼち生活出来てるかな、たぶん?
くらいの温度感になったら治った、とも言えるかもしれませんね。
一言で言うと、治るを目指さないことですね。
治るを目指すというのは、
すべてが完璧で正しく美しい世界を目指すのと一緒なので、
そんな世界はないんですよ。
それでもやっぱり治ることを夢見てしまうのですが、
治ることを目指さなくなった時こそが本当の意味で治ったということになるのかも、という、
なんだかトンチみたいですが、
治るとか治したいとか治そうとしてるうちは治ってないんですよ。
そういうことを考えずに毎日をぼちぼち機嫌よくすごせていた時こそが
治るということなのかもしれませんね。
精神疾患の道というのは険しく長いですね。
まだまだ道半ば。
精神疾患道を極めんとしてる身としては、私はまだひよっこ。
ひよっこなりに目の前のことをやるだけですね。
しかし、この道は、奥が深い。
43年という月日を持ってしても太刀打ちできないのです。
人生100年時代とは言うものの、
半分まで来た、と思っていたのに、
まだ入口かのよう。
出口はまったく見えず、
同じ場所で延々と足踏みしているような気さえするのですが、
進んでいるのだと自分を信じることが大事ですね。
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